読書感想文:往復書簡 限界から始まる

 

発売:2021年7月 著:上野千鶴子鈴木涼美 読了:2021年9月

私がさっきまで穿いていたパンツを被って、ルーズソックスを首に巻き、ブラジャーの匂いを嗅ぎながら自慰行為をしている存在

とは、鈴木がかつて下着を売っていたブルセラ客のことである。これに自分を重ね合わせることができる男性はどれほどいるのだろうか。かく言う自分はその一人である。ブルセラに行ったことが無くても、下着を被りたいという直接的な願望が今は無くても、きっかけさえあれば類似の行為をやりかねないと思っている。

 女性に対してはどこか「(上述のような)みっともない自分を知ってほしい」と思っている節もある。そして性におおらかに見える女性に対してはみっともない自分も受け入れてくれるのではないかと甘えた気分を抱きがちであった。鈴木涼美も私のなかではそのような「受け入れてくれそうな女性」としてカテゴライズされていた。*1

 本書での鈴木と上野のやりとりからは「受け入れてくれそうな女性」が何故そのように見えるのかの理由を突き付けられたようだった。自らが受けた被害を矮小化する「ウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)」や、「女性の主体性は男の性欲を免責する」構造。私が個人的に抱いていたはずの甘えた感情はより大きな文脈のなかで新たに意味づけられる。この過程は私にとって苦々しいものであった。

(前略)多くの女たちが、その日の気分によって、二つの間の細かいグラデーションの中を行ったり来たりしているような気がします。少なくとも私はそうです。

「二つの間」とは性加害の被害者としての弱い自分と、そのような過去を乗り越えた強い自分のこと。こう言う鈴木に対して、またこれに共感する女性に対して、私が安心して甘えた感情を抱くということは後者としてのみ生きることを要請することになるのではないか。いわゆる「男性の加害性」はこういうところでも現れるものなのだろう。

 さて、この潜在的な「加害性」を抱えてどう振舞えばいいのかと読み進めながら思っていたわけだが、結局の所よくわからない。読んでいる最中には二人の言葉に気圧されて「反省しないといけない!」と目頭を熱くしたが、実際にはそう簡単に自分の特性が変わるわけでもない。性差別や性犯罪が糾弾されるべきことは当然としても、上野の言葉に釣られて安易に性風俗まで批判してしまったら、それこそ結果的に信頼を損ねることになるだろう(ポルノ視聴をやめられるはずがないし、買春もするかもしれない)。

 上野はまた、男にもいろいろな人・側面・関係性があるのだから「しょせん男なんて」と男を一括りにして諦念を抱くことは冒涜的であると言う。しかし私にはどうしてもある種の諦念が必要であるように思える。加害に繋がるかもしれない側面があることと、実際に加害をすることは別である。*2そのことを踏まえたうえで前者について「しょせん男なんて」と諦めることは、後者との区別において、むしろ必要なことのように思える。*3そうしないと存在自体が加害になって開き直るしかないような気がしてくる。

 「加害性」と加害の区別を前提としたうえで、差別や犯罪などの加害に反対するという意味ではもっと積極的に声を上げてもいいのかもしれない。しかしいくら声を上げようと、自らの「加害性」への対応としては実際に関わる人と対話を重ねていくしかない。その時にどうするべきかは、「加害性に自覚的になる」以外には、相手によるのでやはりなんとも言えない。*4*5

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 読書中の素直な興奮に比べると、読後しばらく経って冷めた感想になってしまった。あるいはこれも自らの「加害性」に向き合いたくないがための自己防衛なのかもしれない……と言う解釈の妥当性はさておき、そう思いたくなるような不安感が残っているのは確か。ただ、この不安感は必ずしも不快なものではない。

 本書のタイトルの「限界」とは鈴木の自らの立場を端的に表すものであるが、読み終わってみると、実は読者たる私のほうも「限界」に立たされていたのだと気付く。「境目(=限界)に立っているこの場所は、ものを見るのに悪くないような気もします」と鈴木が言うように、新たな景色が開けたような気が(例え錯覚だとしても)して、自らを省みたときの苦々しさとは別に、清々しさのような感覚もある。また、開けた視界の茫漠さに孤独や眩暈のような感覚も覚え、不安感はこれらの様々な感覚が綯交ぜになって生じたもののように思われる。この不安感がまだ残っていることを思うと、やはりこの本を読めてよかったと思う。

*1:にも関わらず鈴木涼美の文章はあまり読んだことがないし本は今回が二冊目。

*2:ポルノや買春が加害だと言われたら話は変わるかもしれないが。また、加害される側からしたら別じゃないかもしれないという懸念もある。

*3:女にそれを要求するというよりも、自己認識として。

*4:加害/被害の構造に持ち込むこと自体が加害性を帯びることもあるだろう。実際に酷い加害をしてしまった場合には対話を求めること自体がまずいこともあるだろう。

*5:対話の重要性に思いを馳せた後、自らの人間関係の希薄さに気付いて一抹の虚しさもある。